僕の気楽飛歩日記

戦中派老人の赤裸々な日記から

独り旅

 5月18日(金)から21日(月)までの4日間、ふるさとへの旅に行ってきた。

 リタイアしてから始めてもう20回になる。

 僕にとって独り旅とは、現実から離れ夢の世界、すなわち懐古の世界へ入り込むことであり、他人との接触は極力避けてきた。

 20回目ともなると、宿泊所の従業員、タクシーおよびバスの運転手、スーパーの店員に顔を覚えられ、会話もでてきた。

 それはそれで楽しいのだが、ふるさとの村を歩いていても童謡・「ふるさと」を口ずさむこともなく単なるウォーキングに替わってきた。

                                     ☆               ☆

5月18日(金)

 すっかり夜が明けて街を覆う春霞の空に朝日がぼんやり見えている。

 曇り、気温21度、今日は29度まで上昇する予報になっている。

 各停で天王寺まで行き、天王寺から地下鉄で新大阪へ向かった。

 新大阪駅へは予約列車発車1時間前に着いた。

 新幹線エリアの待合室で一番奥のイスに座って眠そうな顔をしている人々を見ている。

 列車発着のアナウンスだけがせわしなく聞こえる。

 皆が案外早く着いているようで長く座ったままの人も多い。

 以前独り旅のときにあった動悸のような高鳴りも今はない、わずかにときめいているだけだ。

 ホームへ上がろうと立ち上がったらトイレへ行きたくなった。5人ほど並んで順番を待っている。

 困った、自分の番が来るまでには時間がかかりそうだ。と思ったが、まもなく順番が来た。昨日から軽い下痢をしているから薬は飲んできた、これで終息してほしい。

7時39分発のこだま733号の指定席に着くと、足元にキャリーケースを置いて、その上に肩掛けバッグを載せた。これで安心だ、座席をわずかに倒して腰の負担が少ないよう体を伸ばした。腰痛持ちの僕には倒すことの出来る列車はありがたい。

 いつの間に発車したのか分らないほど静かに動いていた。車内に振動が伝わってきたときにはすでにかなりのスピードがでている。

 周囲を見回すと空席が多い、ほんの数人しかいない。

 昔の新幹線車両には前部にスピード表示がでていたが最近のは無いようだ。

 静かに流れ去る車窓風景を見ながら現実から離れ夢の中に突入していく、これが独り旅の醍醐味だ。

 旅とは非日常の世界すなわち夢の中へ入り込むことでもある。

 相生駅で10分の停車がある、上級列車通過待ちだ。目を閉じて座席に頭を預けていると乗っているこだま号が小刻みに震えだし、やがてドッと衝撃を受けた。上級列車が通過したのだ。

 岡山駅に着いた。とうとう僕の横の席は空いたままであった。

 岡山駅でも1時間待ちだ。でも待ち時間も旅のひとコマだ、苦にならない。

 新幹線エリアの待合室に入ってゆっくりしていたが、衝立で仕切りしてある隣の喫茶からコーヒーの香りが漂ってきた。たまらず喫茶に移動してホットコーヒーを注文した。

 退職してから始めたふるさとへの独り旅も加齢とともに変わってきた。

 最初は4時40分発の始発電車に乗り、天王寺―大阪―西明石―姫路―新見―米子―大田市と11時間かけて各停で行っていたが、姫路までは新幹線で行くようになり、「おとなび」を知ってからは岡山まで新幹線のこだま号、出雲市まで特急やくもで行くようになった。それでも復路は米子まで新快速、そこから各停で岡山、そして新幹線で帰っていた。今回初めて往復とも新幹線と特急やくもを利用した。ただし、料金はおとなびだから各停だけの料金とほぼ同じである。

 特急やくもが入線してきた。

 僕の指定席の前列は通路側に1人用の椅子があるだけでの前は何もない、足を思い切り前に伸ばすことのできる最高の場所だった、窓も広く視界もいい。

 すでに隣の席に座っていた女性に「どちらまで行かれますか」とあいさつのつもりで言葉をかけた。

「出雲です」

「僕も出雲まで行きます」

 あっという間に意気投合した。

 東京で保育士をしている40代後半の女性は父親が入院したので夫婦で見舞いに帰るところだった。予約はしなかったのだろう、夫婦別々の席になり主人は後方にいるらしい。

 彼女の実家は出雲の築地松(ついじまつ)のある家だといった。

「僕が中学生のころ近所にきたお嫁さんは簸川平野(ひかわへいや)で築地松のある家だから昔から続く由緒ある家で大きな屋敷を持つ家ということだった」

 僕が言った簸川平野という言葉が分からなかったようであるが、今は出雲平野と呼んでいる。

「最近築地松が減りましたね」

松くい虫にやられたんです」

 中国地方の松は松くい虫でほとんど全滅状態だ。

 出身校の話になり「出雲高校です」と彼女が言った。

出雲高校といえば僕らの時代は北松江高校、出雲高校、浜田高校が進学校でそう容易く入れなかった」と言うと彼女は大そう機嫌よく饒舌になった。

 出雲市までの3時間途切れることなく、弁当も食べずに夢中になって話した。その反面、車窓風景は目の前を流れていくばかである。

 松江へ近づいたとき通路を挟んだ左手の一つ前に座っている女性が僕を振り返って見つめてきた。

 まじまじと僕を見つめている。15年ほど前に絶交した兄貴の嫁に似ていた。だがその隣に座っている男は兄貴とは違ったので兄嫁ではない。

おそらく「良くしゃべる爺さん」だと思っていたのだろう。静かな車内で僕の声だけが響いていたのかもしれない。―反省―

 出雲市駅に着いた。

「楽しい旅の思い出を作っていただきました、ありがとうございます」と丁寧に礼を言って別れた。

 雨が降っていて気温が高い。

 出雲市駅の待合室でオニギリを食べた。

 益田行快速は宿泊の最寄り駅までノンストップで走る、特急と同じだ。

 大田市駅に着くと豪雨になっていた。

 バスセンターへ行くには雨の中を歩かなければならないし、地震の被害状況も知りたいので駅前のタクシーに乗った。

「ど肝(きも)を抜かれるほど揺れたけど1回だけだったので助かりました」

 物凄い豪雨で数メートル先が見えない、このまま1時間も降りつづければ大変な災害になるだろうと心配したが視界は明るくなってきた。

 運転手は豪雨の中をゆっくり走りながら「道路法面(のりめん)のひび割れが数か所、山からの落石が数か所程度です。家屋は昔からの家で屋根に土を盛ってその上に瓦を載せただけの家の瓦が一部落下したのが数軒といったところでしょうか、揺れの強さに比べて被害は少なかったです」と説明してくれた。

 三瓶山の中腹にある宿泊所へ上っていく道路は数か所について一方通行をしていた。

 僕の定宿は「建物には異常なかったんですが温泉の配管が地盤沈下により壊れてしまいました」と顔見知りの従業員が説明してくれた。

 三瓶山は標高1126メートルの主峰男三瓶から子三瓶、孫三瓶、大平山、女三瓶と連なる独立峰だと思っていたが、そうではなく室の内と呼ばれる噴火口の縁である。噴火口は直径1、2キロもある爆裂火口でこれらの山を取り巻く周回道路は一周17キロほどもある壮大な火山である。

 以前、一周歩きたいと宿のフロントで距離を聞いたら「歩くなんてとてもとても」と相手にされなかったが僕の体力では無理だろう。

 今年1月に噴火した元白根山は3000年前の噴火以来だという、三瓶山は3600年前に最後の噴火をしているらしいが有史に残る噴火はない。3600年前といえば縄文時代である。

 三瓶山だって警戒レベルCの「活火山であることに留意」になっている。いつ噴火するかも分からない火山だ。だが、そのような危機感は皆無だと思っていたが先月の地震により三瓶山噴火を誘発するかも知れないという不安がでてきた。地震は三瓶山の近くで起きている。

 明治五年(1872)の浜田地震ではマグニチュード7.1、震度7の巨大地震で、このとき温泉津温泉の薬師湯が湧出し三瓶温泉は45度まで温度が上がったという、マグマが上昇したのである。それでも三瓶山は噴火していない。現在は29度程度まで源泉温度が下がっている。マグマも遠のいたということだ。

 今回も三瓶山への影響はないだろう。危険度は浜田地震のときの方がはるかに高い。

「はからずも」と言う言葉を今回の島根西部地震に使うことは不適切かもしれないが、この旅を計画したのは半年前であり墓参を目的だったが、ふるさとの被った地震被害の有無を確認する旅にもなった。

 少年時、この地方に地震があったのは僕が小学生のとき、ゴーッという音ととともにグラッと揺れた。今でいう震度1ぐらいだった。それ一回だけだった、だからこの地方に地震はないと思っていた。

 ネットで検索すると2009年ころから震度1~3程度の地震は年に数回は起きていたようである。

 

5月19日(土)

 

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 気温14度、日中でも17度ぐらいしか上がらないらしい。宿を出るときウインドウブレーカーを着ていて良かった。

 霧か霧雨か分からない湿気ががわずかに顔に当たる清々しい高原の朝だ。今日は晴れになる予報がでている。

 今日はわが家の菩提寺へ墓参に行く。

 朝9時12分に最寄り駅に着いた。くもりではあるが雨は降っていない、これからどんどん晴れてくるだろう。

 ここから徒歩で峠越えの道を、お寺まで往復8キロ歩く。この道は熊の出没地域のようだが鈴を鳴らして歩けば大丈夫だろう、さらに携帯ラジオを持参した、ところがラジオのスイッチを入れると雑音ばかりで声は聞こえない、いろいろと周波数を探っていたがついに諦めた。

 涼しくて気持ちのいい林の中を歩きながら、墓に供える花のビシャコでもあれば採って行こうと目をこらして歩いていたが発見できない。

 墓地の被害もなくすべての墓石が何事もなかったように立っていた、一安心だ。

 異常の有無をジックリ調べたがミリ単位の、ずれもなかった。

 線香を供えて礼拝のあと直ちに元来た道を引き返した。

 駅へ11時15分に帰り着いた。

 青空が広がってきた。僕としては涼しい曇りのなかを8キロ歩いたわけでラッキーだった。昨年は27度の中をフーフー言いながら汗だくになって歩いた、あのときはさすがにこたえた。

 列車の到着までには40分ほどもある。

 駅舎もなくホームに待合室があるだけで人の気配もない。

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 ホームの端まで歩いて時間つぶしをしていると駅のすぐ近くに「赤穂浪士寺坂吉右衛門之墓」と壁に書いてある御堂が目についた。赤穂四十七士の一人だ。

―あんなところに。

 と疑問を持って現地へ行ってみると外壁に説明書きがあった。

「討ち入りのあと大石内蔵助の命を受けて亡君の奥方と内蔵助夫人に本懐の報告に行った後、江戸へ帰り幕府に自首したがすでに四十六士切腹のあとだったこともあり、若輩と軽輩を理由に無罪放免になった。その後吉右衛門は僧となって同士四十六人の冥福を祈りつつ諸国遍歴の旅をつづけ、母の里近くのこの地に草庵を結び二十年ほども暮らしていた。晩年は江戸へ帰り八十三歳で生涯を終えた。当村にも分骨を願いこの地に埋葬した」という趣旨であった。

御堂の出入り口にあたるアルミサッシの引き戸に、白い綿のカーテンが引いてあるので中は見えない。

引き戸を横に引くと容易く開いた。一坪ほどの室内には墓石と小さな仏像が安置してあった。

一礼合掌して元通りに戸を閉めた。

  温泉津駅に着いた頃から風が強まったので帽子を飛ばされないようアゴひもを締めた。

 昨年メノハ(板ワカメ)を購入した商店へ行くと「昨日売り切れました」と言われてしまった。仕方ないので200メートルほども後戻りして昔からある魚屋へ行ったが入口のドアが閉まっていた。

 近くのスーパーで巻きずしを買って波止場で食べた。

 前回、昨年の秋には釣り糸を出したが今年は風が強いので無理だ。

 薬師湯に入湯した。祖母に連れられて来た当時とまったく変わっていない脱衣所と浴槽はいつ来ても郷愁を誘う。

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 駅へ向かって歩いているとさっきは閉まっていた魚屋が開いていたので「メノハはありませんか」と聞くと冷蔵庫から段ボール箱を取り出して4袋を希望どおり売ってくれた。

 人っ子一人いない駅に着いた。駅員もいない無人駅だ、駅舎は暗く静かである。

この駅は無人化されたとき農協と銀行が同居した駅舎にしたが、夜間はまったくの無人駅になってしまう。駅の近隣に人の姿も見えない。

もう30年も前のことになるが、母が元気だったころ大阪行きの夜行列車に乗るため待合室で座っているのが寂しくて心細かったと言っていた。母が怖れていたのは人間である。そのため財布には小銭しか入れず、肌襦袢のあちこちに縫い付けた臨時のポケットに1万円ずつ貼り付けていた。

あまりにも滑稽な姿に思わず笑ってしまったが、防犯カメラも付いていない薄暗い駅舎では誰しも寂しいだろう。

 

5月20日(日)

 今朝は昨日よりさらに明るい晴天だ。空に雲ひとつないが気温は低い、高原のバス停に立っていると寒いぐらいだ。バッグからウインドウブレーカーを取り出して着た。今日も18度ぐらいしか上がらないという。まさにウォーキング日和を天が提供してくれている。

 バスセンターで昼食用のパンを買って江津行きのバスで僕の村の駅より2駅手前の駅に下りた。ここから山越えの道を12キロほど歩く。

 晴天で太陽はギラギラだが暑さは感じない、気分のいいウォーキングだ。

 学校が見えた。廃校になっているが、ずいぶんきれいに整備されている。運動場に草一本生えていないし塵一つ落ちてない。

 道は山に入っている。道幅は広いが鬱蒼とした山の中を上るので熊よけのスズを鳴らしながら歩いている

 100メートルぐらい先方を猿の家族らしい4匹が道の真ん中を歩いていた。カメラを構えると母猿と子供らしい3匹はすぐに山に逃れたが父親らしい猿は僕を見ながらことさらゆっくり山の中に入った、親父の威厳を誇示している。

 峠の手前で2本のストックを持ってノルディックウォーキングしている男性と出会った。さすが日曜日だこんな山奥でも人が歩いている。

「おはようございます」

 大きな声で挨拶すると、「銀山街道を歩いておられるのですか」と聞かれた。街道から離れているのでそれを心配してくれているのだろう。

 今日のコースを説明すると納得した顔で「お気をつけて」と言って別れた。学校の先生でもしていたのかあるいはそれなりの職を経てこられた人と思われるほど物腰が柔らかく気品のある紳士だった。

 峠の一軒家近くにある古くて今は使われていないコンクリート製水槽の上に垂れ下がっている木の枝に、白い花が咲いていると思って近づくとモリアオガエルの巣だった。ソフトボールほどの大きさがある。これなら赤ちゃんが生まれたら間違いなく水の中に落ちることができる。親蛙の賢さが現れている。

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「ケンケン」とキジの甲高い声が聞こえた。

 高原の集落に出た。集落と言っても数軒しか見えない長閑な山村だ。

 ここからの道は下りばかりである。

 すばらしくいい天気だ、この時期に多い黄砂も霞もない。視界はどこまでもスッキリしている。

 風が爽やかでウォーキングには最高だ。

 水彩画の画材になりそうなので写真に残したいと横を向き、後ろを振り返りながら歩いている。

 4月の後半から続いていた夏日の暑さも僕の旅が始まると急に涼しくなった、立ち止まると寒いぐらいである。天に感謝しながら歩いている。

道から30メートルほど離れた山際で一頭の大きなヤギが草を食べていた。

この周辺に民家はないから何かの理由で野生化したヤギだろう。

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僕の気配を察知し頭を上げてジッとこちらを見つめている。警戒しているのだ、野生化した証でもある。家畜のヤギは人間が近くへ行っても無関心で気にもしない。

 腹が減ったのでバッグから餡パンを取り出して歩きながら食べた。午後1時30分発の上り列車に乗らないと次は3時台までないから、ゆっくり休んではおれない。

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 分校(現・地域会館)の前にきた。僕の母校ではないがいつ来ても心が和む。おりしも12時を知らせるチャイムが鳴った、学校で使用していたチャイムのようだ。

その場にたたずみ目を閉じた。

 チャイムが長い余韻を残して鳴り終わったとき、教室の中でガタガタとイスを後ろへ押し立ち上がる音、子供たちの元気な声、廊下を走りまわる音が聞こえてくる…はず…であった。

 何も聞こえてこない。

 目を開けると、まだ授業中のような静かな校舎があった。

 なぜかむなしい気持ちになった。

 分校から県道を下って来ると田んぼが現れ徐々に広くなってきた。

 田んぼを見渡すように点在する山際の民家には道路に向いて口を開けた堆肥小屋がついている。僕の幼少期には堆肥小屋を併設した牛小屋があった。

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 牛小屋の古くなった敷き藁と糞を一段低い堆肥小屋に落として肥料を作っていたのだ。

 牛を飼わなくなった現在、堆肥小屋は物置や車庫として使用している。

 僕の生まれた集落は相変わらずひっそりして人の姿は見えない。見る限り地震による被害はないようだ。

  田植えはすでに終わっている。

 分校のある村は昔と少しも変わっていないが、僕の生まれた集落は縦断している大道と呼んでいた県道が、三倍もある道幅の国道になってから利便さと引き換えに景観は壊れてしまった。住民から見捨てられた里山のみが往時の名残である。

 わが家もなく知る人もない、それでもふるさとの村を歩きたい。

 故郷を離れて半世紀すぎても故郷を捨てることの出来ない未練爺が僕だ。

 僕も、もう74歳だ。もしかすると最後になるかも知れない生家の屋敷を瞼に焼き付けておこうと振り返った。

 旅立つ日、すでに見えないわが家から見送ってくれている、ばあちゃんを思い流した涙がなつかしい。

 わが家の墓地のあった山に一礼し合掌した。墓地を移転し魂を抜いてあるとはいえ何代にもわたる先祖の骨はそのままだ。

 わが家の田んぼは昔のままだと思っていたが、グーグルマップの航空写真を見るとブルドーザーを入れるため農地改良して区画を広くしてあった。

 ふるさとの人口激減はとどまることを知らない。

 平成17年度の人口は3万7000人であったものが平成29年では3万5000人に減っている。

「どんどん人口が減るね」

 数年前、ふるさとの駅にいた同年代の女性に話しかけた。

「あんたもだがなー」

 反撃を食らってしまった。人口が減るのは皆が村を捨て都会へ出て行くからだと言っているのだ。

 それはそうだが、僕の家では嫡男が財産のすべてを受け継ぎ、次男、三男は都会にでて働くという宿命があった。地元では働く場所がなかったからである。

 過疎化を防ぐには働く場所を造る。誰もが知っているが誰もしようとしない。これが現状だ。

 駅近くの道を歩いていると対向してきた軽自動車が僕の横で停止した。助士席に座っている僕と同年代の男性がわざわざ窓を開けて、僕の顔を遠慮なく見つめていたが知り合いでないことを認識したのか「おはよう」とひとことだけ言って離れて行った。僕も記憶になかった。

生まれた年を聞けば分かったろうにと思ったが後の祭りだ。

午後1時30分に駅に着いた、3時間歩いたことになる。

歩数計を見ると1万7000歩あった。

 一両のキハ120列車で大田市駅に向かっている。

 列車は温泉津駅を出発してまもなく山陰本線で一番長いトンネルを通過する。

 高校時代、蒸気機関車の列車で通過するとき、ずいぶん時間がかかると思って計ったら2分30秒かかっていたことを思い出した。今計ってみると55秒で通過した。ずいぶん列車の速度もあがったものだ。

 山の切通しを通過中突然大きな鳥がフロントガラスにぶつかってきた。

 駅に着いて乗車券を回収のため立ち上がった運転手に「キジがぶつかってきたね」と言うと「トビでした」と運転手が言った。ぶつかってきたとき、赤や青の長い尾っぽの羽根を見ていたがあえて反論はせず降車した。

 バスセンターで三瓶行きのバスに乗って一番前の席に座っていると、まもなく乗ってきた運転手に「今朝も乗って来られた方ですね」と話し掛けられた。

「そうです、三泊しています」

「あの時間に乗って来られるから宿泊された方だろうと思ったんですが、それにしては荷物が少ないので地元の方かなと思ってたんです」

「三瓶への道はかなり地震でやられていますね」 

「あの日は始発の運転担当で三瓶の寮で寝ていたものですから、ど肝を抜かれました」「テレビは騒ぎすぎですよね、大変なことになっていると思っていたんです」

「うちの駅から東へ二駅の間がひどかったです、昔からの家は屋根に赤土を敷いてその上に瓦を置いただけのものですから、瓦のずり落ちたところがあったようです。最近のは瓦を釘付けしているから被害は少なかったです。それと大棟(おおむね)といいますが屋根の一番高いところの平瓦を10枚ぐらい積み重ねて高くしてある瓦の落ちたところもあります」

「墓石も倒れただろうと思って帰ってきたんですが、まったく異常なかったです」

「墓参りに帰られたんですか」

「駅から峠を越えて片道4キロを往復して墓参です」

「そりゃー大変だ、熊が居るのに」

 運転手は大きな声で話しながら走っている。

 乗客は僕だけだ。

 運転席の背後にある仕切りに「運転手に声をかけないでください」との注意書きを無視して会話は続いた。

 僕が降りるまで乗降客はなく、ノンストップで走ってきた。

 道中の被害箇所を通過するときカメラを構えると運転手はスピードを落としてくれた。

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 宿で夕食のためレストランに行くと僕を含めて5組しか用意されていない。今日は客が少ないようだ。

地震の影響ですかね」

 食後、フロントで知り合いの職員に話しかけると机上の台帳を見ながら、「もう少しおられます。地震のあとキャンセルは受けていません。連休の終わった今は少ない時期です」

 と丁寧に応じてくれた。

 

5月21日(月)

 今日は25度を超える夏日になると予報がでているが僕は一日中電車の中だ。

 バスに乗ると「おはようございます」と昨日の運転手があいさつしてくれた。

 今日は客がいる。途中の停留所でも動くことの不自由そうな老人がひどくゆっくり乗って来る。

 運転手は老人が席に腰を下ろすまでしんぼう強く待っている。

 市民病院の停留所で大半の客が降りた。

 バスはまた僕だけになって駅へ向かった。

 出雲市までは快速で行く。

 地震の被害を受けている辺りで車窓に目をこらしていると、ブルーシートを被せた家屋がところどころにあった。見る限りでは倒壊した家はない。

 今回から帰路も特急やくもと新幹線で大阪へ帰る。

 特急やくも14号10時32分発は多くの空席を残したまま発車した、僕の横も空いている。

 後ろの席に座っている若い女性にことわりを入れて座席を少しだけ倒した。

 往路では話に熱中して景色をあまり見ていなかったが、宍道湖が珍しく波立っている。

 米子を過ぎてから出雲市駅のコンビニで購入したオニギリ2個を食べた。

 コンビニのオニギリなのに都会のとは一回り大きい。地域性があるようだ。何グラムあるのかと表示を探したがグラム数は記載してなかった。オニギリのあと小倉あんぱんを取り出し、持参したドリップコーヒーを淹れて飲みながら、ゆっくり外の景色を楽しんだ。ただ、今回は座席と窓の位置関係を調べずに予約してしまったから窓は半分しかない。

 延着が当たり前のようになっている特急やくもの今回は往路復路とも延着なしだ。

 岡山始発のひかり474号6号車は乗客7名だけ乗せて出発した。