僕の気楽飛歩(きらくとんぼ)日記

戦中派老人の赤裸々な日記から

少年の記憶(1)

 小学校から中学卒業まで一緒だった同級生にS君がいた。

 彼の家は僕らの住んでいる集落から、さらに細い谷川沿いの山道を20分ほど登った頂き付近にあった。そのあたりはかなり広く彼の家の前に10アールほどの畑があった、彼の家の畑である。といっても彼の父親の実家のものである。水がないため田んぼはない。

 実家はすぐ横の高台に建っていた。実家の家屋はこの地方で一般的な広さを持つ瓦葺の平屋建て民家で藁ぶき屋根のボロ家だった僕の家より立派な家であったが、S君が住んでいるのは家の前の納屋であった。実家にはおばあさんが一人で住んでいたので同居すればいいようなものであったが納屋に両親と兄弟2人の4人が住んでいた。

 S君は人里離れた山奥の一軒家で里の子どもと接触することなく、お祖母さんに育てられたらしく、ときどき僕がびっくりするような言葉を使った。小学校の帰りに田んぼで仕事をしているおばさんに「暑いのにごくろうさんですね」と声をかけていた、僕には恥ずかしくて言えない言葉である。

 大人を自分と対等にみるS君の性格は担任の先生に対しても同じであった。

 小学4年のある日、先生から返されたテストを見ると先生とはあきらかに違う下手な赤鉛筆の〇レと採点が付いていた。

「僕が採点したんやで」

 その日の帰りにS君が言った。

「え、なんで」

「昨日放課後、教室に入ったら先生が教壇の机で採点していたから覗きに行ったら手伝わされたんや」

 S君は平然と言った。

 同級生のテスト採点を同じクラスの生徒にやらせる先生もどうかと思うが、僕にとって先生は雲の上の人まではいかないまでも近寄りがたい目上の人である。授業以外で僕から先生に話かけることなんて考えられない。それをS君は平然と話しかけていたのだ。彼の物怖じしない性格には驚くばかりだった。

 また、中学生のとき負い籠に入れたタケノコを担任先生の家へ持って行った。彼の家はおとぎ話の「舌切り雀」に出てくる「スズメのお宿」のように竹林の中にあったから旬の季節には大量のタケノコが生えた。

そのとき先生は留守だったので奥様が「どちらさんですか」と聞いたら「名をなのるほどのものではありません」と言って帰ったという。その夜、奥様から話を聞いた先生は「Sやな」とすぐに分かったそうだ。

小学校のときの同級生は30人弱しかおらず、二つの小学校が一緒になった中学校でも60人弱しかいない地域だったから、同級生の仲は良く誰とでも親しく遊んだ。S君とも仲良く遊んでいた。

 中学生のときの夏休みに遊びに行ったら実家である母屋の座敷に案内されて遊んだ。盛夏であったが涼風がさわさわと流れ気持ちのいい座敷だった。

 ところで、S君が住んでいるのは納屋そのもので、決して僕らを中に入れようとしなかった。それでも、S君が家の中へ物を取りに入ったとき、入口から覗くと座敷に畳はなく藁を厚く敷き詰めてあった。丁度そのころ「にあんちゃん」という悲しい映画を観たが、そのとき出ていた家は藁を敷いてあるだけであった。

 僕の家でも昔囲炉裏のあった部屋を食堂にしているが、囲炉裏を取り払ったあと板敷きの上にムシロを敷いていた。さらに後年にはゴザを敷いた。

 当時は戦後とはいえ、S君には両親がいる。父親は大阪で公務員をしていたが何らかの理由で退職し田舎に帰ってきた。その後勤めには行ってはないようである。僕が小学校に入学したときにはS君もいたから彼の父親は定年まで勤めることなく退職したのだ。村の人の噂では「汚職して首になったから実家にも入れてもらえない」とのことだったが真意は分からない。

それでも健康な大人だったから、畳を買えないはずは無いし、S君の服装からも、そんなに貧乏しているとは思えなかった。なぜ、畳を敷かないのか不思議だった。

あんな山の上では畳よりワラを敷き詰める方が暖かいからだろうかとも思った。

 中二の夏休みも終盤になったころいつも一緒に遊んでいる仲間3人で、彼の家へ遊びに行くため谷川の道を登って行くとほぼ中間にある、わずかな平地の谷川を前にした小屋の前で杉の丸太を輪切りにしたイスにS君が座り父親が後ろに立ってバリカンで散髪していた。

 バリカンは僕の家でも使っているような右手の親指と人差し指で動かすものではなく、長い木の柄の付いたバリカンで初めて見る形をしていた。

 父親が両手でバリカンを持ち植木を剪定するごとく髪を刈っている。ところが髪がバリカンの歯に食い込み毛を抜いてしまっている。

「痛い、痛い」

 と涙声で抗議するS君の頭をバリカンの柄でコツンと叩き、

「我慢しろ」

 父親は手を止めなかった。当時の父親は僕の知る限りとても厳しく暴力的だった。子が何かすれば直ぐに頬を叩かれふっ飛んでいたものである。彼の父親も厳しいことで知られていた。

 散髪の終わった頭にはあちこちに血が滲み付き、スイカのように縞模様があった。

 僕が驚いたのは、頂上付近にある彼らの家ではなく10分ほど坂を下った場所に小屋を建て、そこに風呂を造っていたことである。頂の家に井戸は無く水場は20メートルほども坂を下ったところにわずかな湧水があるだけであったから、風呂水を確保するには谷川のある場所まで、さらに下らなければならない。

風呂水を担いで山の坂道を上がるのは大変だった、だから谷川の近くに風呂を造ったのだろう。

「あそこの嫁は毎朝暗いうちから水場まで何回も往復して家へ担ぎあげているらしい」

 僕の祖母が言っていた。うっそうとした森の中の暗い山道を水を担ぎ上げるS君の母親のことを祖母は豪胆で働き者だと言っていた。

 谷を下りきった集落に彼の家の田んぼがありその横にも小さな小屋を持っていてときどき生活しているらしかった。

 この家族はあちこちを自由に移動しながら生活しているようであった。

 中学3年の3学期に入ると高校受験のための補習授業が始まった。2時間の授業が終わって外に出るともう日が暮れている。

「これからあの山を登って帰るんか」

 僕が聞くと、「下の小屋へ提灯を置いている」とこともなげに言った。毎朝提灯を持って下りて田んぼ脇の小屋に置いて来るらしかった。真っ暗な山道を提灯を頼りに一人登っていく彼を想像して僕は身震いした。当時僕の地域に熊はいなかったがキツネなどの小動物はウロウロしていた。怖がりの僕にはとうていできることではない。

 

 僕の同級生は前述のとおり皆が性格温厚で仲良しであったが、これまでの交誼をすべて覆すほどのことを彼はやってのけた。それは、中学卒業式の午後だった。

 卒業生とその保護者が主催して先生方に感謝をする茶話会を開いた。

 会が始まってまもなく、彼が障子紙に書いた巻物を持って立ち上がり、滔々と読みはじめた。

 家でかなり練習したらしく読み上げるというものではなく演説である。

 突然のことに、僕も同級生も頭が真っ白になり茫然と固まっていた。

 S君はこの中学でただ一人の女性教師を名指しで悪者にしての口撃だった。

先生にお礼を言うべき会に先生の悪口を並び立て攻撃したのだ。

「ここは先生方に感謝する会だろう、そんなこと言うな」と僕は思っていたが立ち上がってS君を制する勇気がなかった。

「やめろ」と言うべき僕らが何も言えないで黙っている。級長の顔を見ると彼も固まっている。

「まあ、まあ」

 と立ち上がったのは校長先生だった。

「不満もありましょうから」

 と言って先生方は全員退席してしまった。彼一人で茶話会を台無しにしてしまったのだ。

 

その後、僕と彼は通う高校が違ったこともあって会うことはなくなったが、高校3年のとき、彼らは村の中の田んぼ脇の小屋で生活しているとの噂を聞いた。

山の上の彼の家には電気が付いてなくランプ生活していたから、電気のある下の村に下りるということは当然のことだったのだろう。

 

 僕が就職して3年目の帰省時に彼の弟と出会ったので、「兄貴は元気か」と聞くと、

「卒業して都会に出たら音沙汰なしだ、今は生きているのか死んでいるのか分らん」

弟は兄のことを蒸発したと言った。

 あの豪胆なS君のことだ、今でもどこかで元気に暮らしていることだろう。