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僕の気楽飛歩日記

戦中派老人の赤裸々な日記から

ノスタル爺の独り旅

 

 

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 新緑の候独り旅と命名する。

 2008年(平成20年)から始めたふるさと独り旅はもう16回目になる。4月3回、5月3回、7月2回、9月1回、10月1回、11月4回、12月2回と四季折々の風景を楽しんできたが新緑の時季は初めてである。

 季節の移ろいはふるさとの風景をがらりと変えている、みずみずしい新緑風景もまた良いものだ。

 春の風景には黄緑色や桃色など、他の季節にはない色がある。中学生のころ、これらの色を使って描く山野の写生が好きだった。

 

5月20日(金)

 晴れ、気温24度、旅にはベストの天気だ。

朝4時15分、ゴロゴロと静かな町に響く音を気にしながらキャリーケースを転がして駅に向かっている。

 かすみがかった空に輝きを失った満月が出ている。もうすぐ夜は明ける時間であるが町は未だ目覚めていない。

「もういくつ寝ると」指折り待った半年がやっときたのだ自然と早足になる。

これまでは姫路駅までJR在来線で行っていた。だが、天王寺で2分、大阪駅で4分しか乗り換え時間がないので重い荷物を持って走らなければならないし、西明石駅でも乗り換えなければならなかった。今日は姫路まで新幹線で行くことにした、こうすれば乗り換え時に走らなくても済むから身体への負担が少ない。

 5時5分発の電車に乗るつもりでいたが3時半に目が覚めてしまったので4時37分発の始発に乗った。

 始発にもかかわらず座席はほぼ満席になっている。

 大きなバッグを持った男性が多い。どこかの建設工事現場へ行くようだ。

 天王寺駅では1番線に着いた。ここだと環状線乗り換えに最短距離で済むからありがたい。ただし、僕は地下鉄にしている。

 新大阪に着いたのは6時前だった。JRの大阪駅経由であれば料金も安いが乗り換えの少ない方ということで地下鉄にした。

 新大阪駅で「このキップで乗れる電車はどれか」と駅員に聞くと「みずほ」に乗ることを進められた。予定より30分も前の電車だ。

「みずほ」は「のぞみ」、「さくら」は「ひかり」と同等クラスの九州、山陽新幹線N700型で鹿児島行きだ、大阪発というのがうれしい。少し早めに行けば自由席でも余裕をもって確保できる。ただ、姫路に停車する「みずほ」は極端に少ないので注意が必要だ。

 すでに入線している「みずほ」に乗り込んで気に入った座席を確保した。

 足元にキャリーケースを置いてその上に車両備え付けのテーブルを広げた。新幹線は足元が広いので思い荷物を網棚の載せなくても済むからありがたい。

 目を閉じて胸の高鳴りを静めた。時間に余裕をもって移動しているのに高鳴りは動悸ともいうべき状態になっている。不安からくるものでなく半年待ってやっと来たという喜びからだ。ただし、ワクワク感はあきらかに通り越している。

 霞の中を静かに疾走している、まるで夢の中へ突入していくようだ。

 発車後しばらくして在来線ではほとんどが消えている車内販売が来た。

 現役時代、東京へ出張のときにはいつも飲んでいたコーヒーを飲みたいが姫路までしか乗らない今回は無理だ。

 山陽本線

 姫路駅で1時間待ちになった。構内を歩いたが待合室もなく店も開いてない、しかたないのでホーム待合で持参のオニギリにかぶりついた。ふと、向かい側の上り線ホームで入線待ちをしている通勤客の視線を感じて苦笑した。田舎から出てきたおじいさんがホームでオニギリを食べている姿そのものである。

 今日1日分の食料として女房に造ってもらったオニギリ5個を1個ずつラップに包んでリュックの一番上に置いている。前回からキャリーケースとは別に、小さなリュックを背負って、その中にオニギリと飲み物を入れている、1日分の食糧だ。

 車内で重いキャリーケースを網棚から載せ卸しをしなくて楽だ。さっそくティーバックの緑茶をステンレス製マグカップに出して飲んだ。

 ふと西の空に白い大きな月が残っていた、残月だ。

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 新見行電車が入ってきた。一番気に入った席を取るため30分も前からホームに立っていたのに、電車が到着するとドアの開閉ボタンをせわしなく押し続け、開くのと同時に車内に走り込んだ小太りの若い男に取られてしまった。しかたないので他の席に座った。

 それでも座席を確保してホッと一息ついた。

 この列車は新見まで3時間20分も走る、今の普通列車ではめずらしく長距離列車だ。

 いつものことながら、この瞬間が一番安堵する。発車して間もなく、いつの間にか居眠りしている間に5駅を通過していた。

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 ふと気づくと隣に若い女性が座っている。僕の体は彼女を圧迫していたようなので、「すみません」

 と謝って体を起こした。彼女はまったく無反応でiPADを見つめていた。これも若い娘なりの思いやりかもしれない。 

 例のすばやい男に取られた席を見ると他の女性が座っていた。

―ちくしょう、そんなに早く降りるなら走ってまで席を取る必要はなかろうに。

 僕は舌打ちした。

 列車はロングレールの上を滑るように走っている。昔からレールの長さは25メートルと決まっていたが最近ではどんどん長くなっている。一般的に200メートルを超えるものをロングレールといい、新幹線は497メートルもあるらしい。

 テレビの特集番組でロングレールの交換方法を報じていた。既設レールの外側に新しいレールを置いてわずか20分で交換してしまう。まるで開いたファスナーを閉めるごとく簡単に、一定速度で動きながら交換していた。この手品のような技術は世界で日本だけだと言っていた。

 岡山までは右側の景色が好きなのだが伯備線の車窓風景を優先して左側に坐っている。だが、こちらは逆光になるから曇りの日がいい。今日は残念ながら晴天だ。

 今は麦が黄土色に熟れる時季なのに車窓にそれらしきものはない。麦は一部地域でビール用大麦を栽培している程度で、小麦はほとんどが輸入品である。そのため田んぼは稲作のみで冬は遊ばせているものが多い。その分、田植えの時期も早くなっている。

 昔、僕の家では5月の下旬に麦を取り入れてから、他家にお願いして牛の引く鋤(すき)で田を掘り起してもらい、次に我が家の人力をもって鍬で土を細かく崩してから水を入れ、6月15日に牛の代掻(しろか)きをしながら苗を植えた。今の農業は全て機械で一気にやってしまう。ずいぶん楽になったものだ。

 コーヒーを淹れたいが普通列車は生活の足である。乗客は移動することを目的とする通勤通学客だ。僕のような乗ることを目的とする者はいないであろう、満席に近いそんな車内でのコーヒーはひんしゅくものだろう。ペットボトルにいれて持参した水で喉を潤した。

 伯備線

 倉敷駅で大勢の客が下車したので、やっと念願の席を確保できた。この席からは窓の全面を見渡すことができるため視界が広がるのだ。無理をして横を向かなくてすむ分、首の負担も少ない。

 倉敷を出てほどなく列車は土手をかけあがり高梁川の西岸にでた。車窓いっぱいに広がる大河の風景は僕の一番好きなロケーションである。やっと都会を離れ、ふるさとに向かっている喜びを実感する場所である。

 列車は人影のない山村をたどりながら川に沿ったカーブをゆっくり走行している。

 伯備線中国山地を縦断するにしてはトンネルが少ない。岡山県高梁川鳥取県日野川という二つの大河に沿っているからだ。

 心地よい速度だ、おだやかな時間が流れてゆったりとした気分を提供してくれている。

 山も里も新緑が芽吹いている。若葉とはいえ黄緑一色ではない、赤みがかった色や深い緑、浅い緑など色々ある。

 長い冬を越した喜びがわいて華やいだ気分にしてくれる。こういう風景は「山わらう」と季語になっている。だが、江戸川柳「ほととぎす二十六文字は案じさせ」(和歌は三十一(みそひと)文字だが、ホトトギスを詠み込めば五文字をどう仕立てるかが思案のしどころというユーモア)のごとく、その仕立ては浮かばない。

 反して、山裾の竹林は黄色く紅葉している。タケノコの生育に精魂つき果てた姿で、今が落葉の季節だ。新しい葉が出そろって勢力を盛り返すのは盛夏のころになる。ただし、今紅葉しているのは孟宗竹のみで、川土手を覆う破竹などの和竹は6月にタケノコを産するまでは元気だ。

 山をえぐる谷にそって植林された杉やヒノキなどが若葉の山にクサビのごとく食い込むように濃緑色の帯となって上っている、まるで詰碁のごとくせめぎ合いだ。

 山のところどころにポッコリと盛り上がるように、黄色く際立った大木がある。肌色に近い黄色だ。若葉だと思っていたがよく見ると花のようだ。椎の木かと思うが正確には分からない。これから夏にかけて常緑樹の花盛りだ。桜のような派手さは無いが多くの木々が満開である。だが、まるで目立つのを恥じ入るごとく地味である。

 川まで迫った山の傾斜を走っていた電車がトンネルを抜けると高台の日羽駅に停車した。山と山の間の谷間を盛土でつないだ線路上の駅で下に広がる村まではかなり高い。2階建て民家の棟より高い位置だ。好きな車窓風景の1つである。車内からは気づかなかったが、いつの間にか上っていたのだ。この駅だけが高く、次の駅は集落と同じ高さに戻っている。

村の人は駅の上り下りに苦労していることだろう。

 実はこれまで車窓から見て、下の村からホームまでは4、50メートルあると思っていたがネットで駅の写真を見るとあまり高くないことに気づいた。

 左手のはるか前方には旧線と旧駅舎があるらしいのだが確認はできない。

 日羽駅を発車すると又すぐトンネルに入った。

 倉敷から新見間は特急待ちが少なくなっている。1年前までは井倉駅石蟹駅の中間に退避線(信号所)を設けて特急待ちをしていたがそれも無くなっていた。ダイヤをうまく組み直したのだろう。

 高梁川水面に映る新緑が美しい、今の時季に旅行を計画したことは成功だ。

 新見からの列車は今までのデラックスな車両からキハ120というディーゼル車に替わっていた、短距離用の車両だ。10年ほど前デビューした当時はエコで馬力が強く、ワンマンで運行が可能になった車両として話題になったということである、運転席は前後両方にある。4人掛けボックス席は左右両サイドに2個ずつしかない、あとは窓を背にするロングシートである。それでもボックス席には、窓際に小さなテーブルが付いている。

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 新見駅を出発するのを待って2名ずつ向かい合って座るセミクロスシートを独占、両足を座席の上に伸ばしてオニギリを食べた。そしてドリップコーヒーを淹れて、川沿いの絶景が続く車窓を見ながらことさらゆっくり味わっている、至福のひと時だ。願わくば車窓風景を楽しむため窓ガラスをきれいに磨いてほしい。泥や埃の付いたガラスでは幻滅だ。残念ながら山陰線や伯備線を走っている米子管内の列車はいつ乗ってもガラスが汚れている、いったい何時掃除したのか聞きたくなるぐらいだ。

コーヒーの香りが周辺に漂っている。

― どうだ、いい匂いだろう。

 誇らしい気分になったが周りに乗客はいない。

 実を言うと姫路から僕と同じ格好をした一人旅風の男が2人乗っている。

 僕を含めて3人は、自分のテリトリーを持っているかのように離れた座席に座っている。お互いにそれぞれの存在には気づいているが話はしない。たとえ一日中一緒でも会話はないだろう、僕からは話かけない。「一人旅」を「独り旅」とした所以だ。

 10時間もローカル列車に乗っているのだから小説の1冊ぐらい持って旅をしてもよさそうなものだが現実には本を持ち歩くことはない。車内で読もうとしても、すぐ気がはぐれて車窓に目が移る。何回かそんなことを繰り返して、今まで読み終わった内容まで忘れて、ついには本を閉じてしまうのだ。時間が長いと感じることは無い、旅は目的地へ着くことが目的ではなく移動も一瞬一瞬を楽しむことである。

 乗客の多くがうつろな眼差しで外に目をやっているか、あるいは目をつむっているなか、僕だけが後方へ移りゆく車窓風景をひとつも逃さないと大きく目を開いている。

 電化されているのにディーゼル車はかなしい。坂を上るたびに轟音がとどろく、まるで軽四自動車でカーブの多い坂道を走るようだ。薄っぺらな座席は固く尻が痛い、快適とはほど遠い車両だ。これで米子までの2時間はしんどいだろう。

ま、いつ乗っても一つの車両に2、3人しか乗っていなかったのだから仕方ないのだろう、今も3人だけだ。

 周辺に家屋の見えない山峡の無人駅から1人の老人が、ひどくゆっくりと乗車してきた。

―たぬきの化身かな。

 失礼な空想に心がなごんだ。車窓風景に民家や耕作地はなく人の気配さえ感じない山の駅だ。

こんなところに駅が在るのも不思議なくらいである。

この駅にかぎらず伯備線及び山陰線のほとんどの駅が無人である。電車、乗客とも「勝手に入って勝手に出ていく」それがJRだ。国鉄時代には無かった停留所方式である。安全は乗降客が守れということだろう。駅員のいる米子や松江にしてもホームに立って電車の運行や安全に携わる係員はいない。国鉄を一方的に民営化した意趣返しのような気がする。

少年時、ホームに入ってくる列車を駅長または助役が迎え、乗降客の安全に注意しながら、発車の合図をし、去っていくのを見送ってくれていたものだ。

ホームの端に直立不動で立って列車が視界から消えるまで見送ったあと、「よし」と指差呼称していた姿は過去のものである。

 新郷(にいさと)駅に停車した。駅舎のないホームだけの駅である。駅員がいないのだから駅舎は必要ない。ホームに待合を作ればいいのだ、こういう方式が増えている。

 県境のトンネルを抜けて上石見駅に着いた。この駅は復路で八分間停車することもあって車窓風景をじっくりながめることのできる高原の駅である。ホームのすぐ下に数年前まであった民家は無人となり、たちまち蔓に覆われ家屋の姿さえ見えなくなった。すさまじい蔦の成長だ。

 駅の西側に広がる田園とその先茅葺の民家がある里山風景はのどかで心なごむ。

 この辺りはほとんどの田んぼが田植えを終えている。植え終わったばかりの早苗は、か弱く深く張った水におぼれるがごとくアップアップしている。

 新緑と杉やヒノキなどの黒っぽい濃緑色が己のテリトリーを競っている。パッチワークみたいだ。

 黒坂の鏡山城跡を見るたびに柳生一族の柳生宗章(五郎右衛門)を思い出す。柳生十兵衛の伯父である。弟の柳生宗矩とともに徳川家康に召されたが仕官せず、武者修行の末に小早川秀秋に召抱えられた。関ヶ原の戦いでは秀秋に近侍して警護の任に当っている。その後秀秋が改易されると、中村一忠の家老横田村詮に乞われて伯耆米子藩に客将として仕えた。

 しかし、村詮は主君の一忠により城内で誅殺された。これに対し横田一族と横田を支持する家臣は飯山に立て籠もった。城内大手横の小高い山である。柳生宗章は義憤と横田への恩義から加勢したが、隣国松江藩堀尾吉晴の助成を得た一忠により鎮圧された。その際に宗章は数本の刀を差して敵兵18名を斬り倒し最後は刀折れ力尽きて壮絶な戦死を遂げた。しかし宗章の武勇は柳生一族の名を一層高めることになった。

米子城中村一忠は、それから6年後無嗣除封された。このとき黒坂は米子藩から離されて伊勢国亀山から関一政が5万石で入封して鏡山城を構えたが、わずか9年後一政に対する家臣の反発からお家騒動を引き起こし改易された。

池田氏がその後を継いだが重臣の派遣により黒坂を支配した。

  新見からの列車は特急のダイヤが狂ったらしく待ち時間の多いのに閉口した。定刻通り走っていてもいいかげん多いのにその数倍も待機している。走っている時間より停車しているときが長いと感じるぐらいである。

特急優先の伯備線でのしわ寄せはすべて普通列車に被さってくる。

 カーブの多い山峡をやっと抜け平野にでた。「さあこれからスピードが出るぞ」というときになって、ノロノロモタモタと走っている。あげくの果てに見通しの良い直線の踏切で緊急停止した。「踏切の緊急ボタンが押された」と運転手は言ったが近くに人影は見えなかった。

  山陰線

 米子から特急に乗り換え海側に席を取ると、ガラガラに空いた車内をいいことにシートをリクライニングにして腰をのばした。出雲市駅までの短い時間ではあるが静かな車内で体を休めることができる。米子で40分待てば普通列車はあるが、特急に乗ることにより1時間早く宿に着くからである。

 中ノ海が見えてきた。

 島根に入った安堵が滲み出てくる。

 18歳のとき、ふるさとを離れ50年にわたって大阪に住んでいるが、僕の心は未だ島根県人のままだ。

 出雲市駅の少し手前、直江の辺りで、数町歩はあろうかと思える広い田んぼで麦が薄い黄土色に熟れていた。よく見ると背丈がずいぶん短い、わが家で作っていた麦は屋根用の麦わらなので丈の長いものを作っていた。品種が違うのだろう。

 少し離れた田んぼでは耕運機で麦刈りをしている。麦を刈り取ることをせず、アメリカのように実だけを回収する方法だ。おそらく種まきもアメリカ方式で機械をつかったのだろう。

 昔は田を耕して畝を作り、種を手で撒いた。収穫も稲刈りと同じように手で刈り取った。現在のやり方では収穫量は雲泥の差で少ない。収穫量より労働で楽な方法を選んだのだろう。

 13分遅れで出雲市駅に着いた。車内では「連絡の浜田方面行き普通列車は発車せずに待っていますから御安心ください」と再三車内放送していたのに着いてみると発車した後だった。

 到着の少し前、浜田方面へ行く乗客の数を数えていたが2人だけだったから見切り発車させたにちがいない。頭に来たが文句を言ってもしかたない、と口をつぐんだ。

ホームに駅員がいないので一階の窓口まで下りて「次の下りは何時か」と聞くと「15時8分までありません」と返答してきた。通常であれば列車到着時に構内放送で知らせていることである。乗り継ぎの乗客は2人だけとみて省略したのであろう。

40分待ちになるが仕方ない、ホームに戻ったが大田への到着時間が気になり、もう一度下りて「快速か」と聞いたら「普通ですから各駅に停車します」と言った。

いつもの一1番線で待っていたがふと隣の3番線を見ると「浜田行15時8分」の電光掲示が出ている。「隣のホームから出るんかな」と近くにいた高校生2人組に聞くと「いつもここから出ます」とゲームに夢中になっている。「掲示がでているからには向こうから発車するはずだ」ともう一回下りて駅員に聞いたら「3番線です」と短い返事。

「聞いたことしか答えないのか、次の浜田行は15時8分に3番線からでます。と最初に言ってくれるべきだろう」と怒鳴りたかったがグッと抑えた。最近の僕は怒りっぽい頑固爺になっていると反省したばかりだ。

 思っても詮無いことであるが国鉄時代は、どんなに強い台風のときでも風の隙間をみながら前へ進め、広島へ原爆投下されたその日でも止めることなく動かしていた。各駅のホームはもちろんどんな山間の線路であっても敷地内には草一本生えていなかった。国鉄マンとしての自負と責任感があった。現在のJRに国鉄魂なるものは残っていないように思う。

 発車5分前になって「15時8分発の浜田行は3番線から発車いたします」と構内放送があった。僕がカッカしていたのは、いわゆる時間外だったのだ。それにしても特急到着時に構内放送で案内するべきだ。

15時8分の浜田行は、米子で特急に乗らないときに乗っていた普通列車だった。結局、米子で特急に乗り換えたメリットが消えたのだ。

 列車は出雲神西付近を走っている。以前は「ちいみや」と呼んでいた駅が出雲神西駅になったのだろう。

 この辺りも見慣れた田園風景であるが、なぜか心に残っている。車窓景色の中から少年時を蘇らせる場所である。田植えはほとんど終えている。

 桐の花が咲いている。藤の花と同じ薄紫色で僕の好きな色だ。天に向かって立つ姿は秀吉が好んだ花だというのもうなずける。

 海岸近くに立っている風力発電の風車が止まっている、風はまったくないようだ、それでも海は荒れていた。大きなうねりが次々と押し寄せ岩場にぶつかってしぶきを上げ白波を立てている。

 1時間遅れで大田市駅に到着した。ふるさとの軒先のような位置である。でも、つい無意識に知人はいないかと周辺に目が向いている。ありえないことだが、ついつい期待してしまう。

バスは予定より一本後発が20分後に出る。

 バスセンターでは三瓶行がすでに停車していたので、車内で待っていると発車三分前に乗ってきた運転手が「どこまで行かれますか」と聞いてきた。「三瓶の国民宿舎前です」僕が答えた。

バスは僕1人だけを乗せて発車した。途中のバス停で待つ客もなくノンストップで三瓶高原に上って行く、まるで貸切バスだった。結局、このバスは僕一人のために運行したようなものだ。

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 さんべ荘に着いた。

「お疲れさまでした」

 従業員の笑顔が迎えてくれた。ホテル内の説明をしようとした女性事務員に「よく分かっています、夕食は5時半でお願いします」と話を遮断し鍵だけを受け取って割り当てられた部屋へ急いだ。

 予約を取る部屋はAタイプの洋室と決まっている。ツインを1人で占有するから営業効率は悪いにもかかわらず受けてくれるのでありがたい。

 都会のビジネスホテル程度の狭く簡素で窓からの景色も無い穴倉のような部屋だが気に入っている。

 ツインベッドの一方のベッドにバスタオルを広げて、その上に身体から離した時計やめがね、携帯電話、カメラなどを置いた。こうすることにより忘れ物を出さないためだ。これはチェックアウトまで続けている。

 荷物を置いてただちに大浴場へ向かう。

 浴場入口で男湯であることを確認して暖簾をくぐった。日帰り入浴客の靴が下駄箱に多く並んでいる、混雑しているようだ。何回か前の独り旅のとき「さんべ荘は日帰り入浴が人気ですよ」と言ったタクシーの運転手を思い出した。

 浴室の引き戸を開けて、濡れた洗い場で滑らないよう足元に注意しながら鏡の前に座り、頭から足の先まで洗い終わると室内の風呂で体を温めたうえ露天風呂に移った。これが僕の入浴スタイルだ。露天には檜風呂や釡風呂、酒樽風呂などいろいろな種類の浴槽がある。ただし、泉質は皆同じである。少し熱めの湯が出ている羽釡風呂が僕のお気にいりだ。

 ゆっくりと体を沈めて空を見上げた。温泉が体内に蓄積した疲れを吐息とともに押し出した。

 雲は多いが天気が崩れることはなさそうだ。

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 何年か前の夏に来たとき、この湯に浴しながら関西ではほとんど聞くことの無くなったツクツクボーシと鳴く法師蝉の声に、目を閉じ聞き入ったことを思い出したが、春も終わろうとしている今はなんの声も音も聞こえない。

 隣の酒樽風呂から立ち上がる湯けむりがゆらゆらと水面を動き回っている。

 食事のとき、女性従業員が「ヤマメです」と持って来た塩焼きの魚を食べながら、ヤマメ、イワナ、アマゴはすべて違う魚だということを最近になって知ったことを思い出した。それまでは同じ魚を地方によって呼び方が違うのだと思っていた。

ヤマメは海に出て三年後サクラマスになって川に戻ってくる。柄が大きく朱点がない。

アマゴも海に出て戻って来るがビワマスになっている。柄は大きいが朱点がある。

ちなみに、イワナは大きくなってもイワナで海には出ない。斑点模様だけである。

 

 5月21日(土)

 晴れ、気温24度。

 高原を下りるバスは生徒でほぼ満席になった。少子化で悩んでいる島根においては不思議なくらいである。さんべ山のカルデラ地域に広がる村落には若い世代の家族も多いようだ。

 野良仕事に出ている村人が手を振っている。知った人がバスに乗っているのが目についたから振っているのかと思ったが、別の場所でも振っている。

 大田駅から快速に乗り温泉津駅に降りた。

 駅前通りの小浜(こばま)地区をすぎて温泉地区へ入る海岸端に「ゆのつ温泉」と書かれた街灯兼看板塔が立って、そこは海を見ながら一服できるように角石が置いてある。ここは少年時からあった。頭頂にあるガス灯のような街灯は電線が付いているので、今でも点いているのだろう。

 温泉津温泉には大正時代そのままの建物が多く残っている。

 過ぎ去った遥かな少年期を回想するには絶好のロケーションである。

 数年前に破産してしまった造船所は解体されていた。

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 解体費用は誰が負担したのか気になったがおそらく市の財政から出ているのだろう。

「一万トンの船をアルミで造ってテレビや新聞で注目されたんだが注文は続かなかった、結局破産してしもうた」前回、大田駅から三瓶まで乗ったタクシーの運転手が話していた。

 商店に入って「温泉津わかめ」を購入しようとしたが見当たらない。

「わかめは無いのですか」

 レジのお姉さんに聞くと、

「ありません」

 ただひと言つれない返事がきた。

 もう1軒、温泉街近くの店へ入るとダンボール箱に20袋ほどが無造作に置かれていたので3袋を買った。

「いつも買いんさるけど、こちらの方ですか」と愛想よかった。

「生まれたときから口にしているからね、これは外せないですよ」

 僕の顔を覚えていてくれたことに気を良くして僕も愛想よく話した。

 薬師湯に入湯した、幼児のころ祖母に連れられてよくきた温泉だ。

 この温泉は大正時代の地震により湧出した温泉で「震湯」と呼ばれている。

 温泉津温泉にはもう一か所別の場所に1300年前から続いている温泉があるが非常に高温で入浴すると皮膚が痛い。

 僕の幼年時には、原爆症に効くということで、広島から背中全面にケロイドの残った人たちが入湯に来ていた。松の皮のように凹凸のある皮膚は見るも無残な姿だった。

「大変な目に遭われましたね、ゆっくり養生してください」

 祖母がねんごろな言葉をかけていた。

「私の息子は2人とも戦死しました」

 と言うことも忘れなかった。祖母としては悲しい思いをしたのはあなたたちばかりではない、お互いにがんばりましょうと言っていたのだ。

 前回、湯の中に鉄さびが多く含まれていて導入管がさびているのか。と思っていたが今回はほとんど浮遊物はなく本来の湯に戻っていた。

 

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 大田駅へ帰ってきて、次発のバスに乗るため急いで土産物を買いに売店に行くとおばちゃんがいない。困ったと思ったら観光センターのおばちゃんが「今、トイレに行っているよ」と言いながら出てきた。

「急ぐの?]

「さんべ行きのバスに乗りたい」

「それは大変だ、もう時間になっている呼んできてあげよう」と言っているときに売店のおばちゃんが帰ってきた。

 急いで「菓子の金つば」を4個注文すると、「え、4個も買ってくれるの」とうれしそうに代金を受け取った。

「バスが来たよ」

 観光センターのおばちゃんが知らせてくれてバス停へ走った。止めておくつもりだろう、売店のおばちゃんも走って、僕も走る、大騒ぎしてバスに乗ることができた。

 ありがとう2人のおばちゃん。

 

 5月22日(日)

 朝、レストランで食事を摂りながら、すぐ近くに登山道口があるのを見つけて、中二の修学旅行で三瓶温泉(当時は志学温泉といっていた)に泊まったとき、ここら辺りにくわしいS君が「サイダーの源泉があるから案内する」といって僕ら数人で山道へ分け入った。しばらく歩いていると後方から息せき切って追いついてきた先生に「勝手に山に入ってはいけん」と叱られ連れ戻された。その源泉は昭和38年の雪崩で埋没したらしいが登山道は残っているはずなのに何処にあるのか分からないでいる。

―ひょっとして、あの道かな。

 特に確証はないがあの時の登山道のような気がしてきた。

 泊まった旅館は、もう少し坂を下った温泉街にあった。今では共同浴場は2軒あるらしいが旅館にいたっては1軒か2軒残っているにすぎない。僕らが止まった旅館はどうなったかも分からない。

 この修学旅行ではちょっとしたハプニングがあった。

 旅館に着くなり僕らは4、5人で風呂に行き、「男」と書いてある脱衣所で服を脱いでひょうたん型の大浴場に浸かった。

 そのとき同じ風呂にドヤドヤと女生徒たちが入ってきた。

「あ!」とおどろく僕たち。

「あ!」とおどろいて立ちすくむ女生徒。

 一瞬の静寂の後あわてて胸を両手で隠し「きゃー」と悲鳴をあげて脱衣所へ消えた。

 あっけにとられて立ち尽くす僕の目には女生徒たちのスッポンポンの下半身と真っ黒な恥毛が網膜に焼き付いていた。とっさのときには下半身より胸を隠す女性の心理がふしぎだった。

 何か悪いことをしてしまったような気分になり僕らも風呂をでた。そのとき血相を変えて男の先生が飛び込んできた。

「お前ら、女湯へ入っただろ」

 えらい剣幕である。

「ちがいます女の子が男湯へ入ってきたんです」

「男湯だと確認して入りました」

 僕らの弁解に、

「女生徒がそんなことするわけないだろ」 

 男先生の語気が急に落ちた。そして何か合点したようすで出て行った。僕らも服を着て廊下に出ると男の先生が女先生を連れてやってきた。そして女先生は「女」と書いた脱衣所へ男先生は「男」と書いた脱衣所へ入って行き、やがてにこにこしながら出てきた。当時の温泉旅館には脱衣所のみ男女別で浴場は混浴というのがあったのだ。

 直ちに入浴の時間割が決められた。

 このことは旅行が終わって学校でも誰も口に出すことはなかった。当の彼女たちは何事もなかったようにしれっとしている。僕が目を伏せて通り過ぎるありさまである。なぜなら、あのとき見た、ボインの中にめり込んだ少女の乳首がいつまでも僕の心を支配していたから。僕にかぎらず他の男生徒も同じ思いだったのだろう。当時、女体の話でもしようものなら女生徒たちから「いやらしい」と変態扱いされ総スカンをくらうこと明白だ。

 あのとき、先生も女先生を呼ばなくても旅館の人に聞けば分かったはずである。先生もうろたえていたのだろう。それは「女風呂に男子が入っていた」と訴えた女子生徒の言葉をうのみにして怒ったが、はやとちりであったことへの負い目であったのかもしれない。

  今日は独り旅の最大目的にしている地方にしかない歴史関係の原史料集めだ。今回は大田市の図書館に行く。

 朝10時の開館と同時に史料を探し、コピーを取って行く。ゆっくり読む時間はない、史料になりそうなものはとにかく集める。なにしろ年に2回しか来ることができないから忙しい。

 昼食のため図書館を出て5分ほど歩くと回転すしの店があった。田舎にしてはめずらしく都会の雰囲気を持った店だ。

 市内を歩いている人はほとんど見ないのに店内は満席だった。しかも「若い者が多い」と思ったら今日は日曜日だということを思い出した。

 値段は少し高いが魚介類は新鮮で美味い、しかも都会ではほとんど口にできないクロダイ(関西ではグレ)やボッコ(ガシラ)チンダイ(チヌ)などもある。

 夕方、国民宿舎に帰ると部屋のドアに「滞在」という木札が取り付けてあった。3泊でも滞在なのだ。どことなく誇らしい気分になった。できれば1ゕ月ぐらい滞在してみたい。

 

 5月23日(月)

 朝、大田市駅に着いたのは9時すぎであった。重い荷物になったキャリーケースをロッカーに預けて、初日に確認していたスーパーに行って弁当を買った。駅からスーパーまで20分、店内をうろついて祭りスシを買いたいと思ったが無かったのでバラズシと巻スシを買って駅前に帰り着いたら10時過ぎになっていた。

 近くの喫茶で40分まで時間を潰してから駅に帰り、預けていた荷物を出してホームにでた。列車到着まで30分前だが駅舎内で待つより風があって気持ちいい。

 列車が大田市駅を発車した。離郷になるが独身のときのような惜別の情は湧いてこない。帰省でなく旅行になってしまった故郷への旅である。

 米子の伯備線ホームに移動して弁当を食べようとしたら箸が無いことに気づいた。普通、スーパーで「箸はいりますか」と聞いてくれるがレジ係のおねえさんは言ってくれなかったので僕も忘れていた。しかたないので、駅の立ち食いソバ店で1本をもらった。

列車に乗ってから弁当を食べようと待っていたがいつまでも到着しない。後着の特急が先に着いた。

変だなと思ってホームの時刻表を見ると31分着に変更されていた。

 新見発時刻は変更ないから到着が20分強も遅くなったということは、それだけ途中の駅での待ち時間が増えたということだ。これまででさえ待ち時間の多さに閉口していたのにもはや限界だ、米子行きの普通列車はもう乗らないと決めた。

 新見行が発車して四つ目の駅で対向列車待ち合わせのため8分停車すると放送があった。

 伯備線の米子新見間はとにかく待ち時間が多い。記録してみると4回で31分も止まっていた。

 岡山駅で新幹線エリアに入る改札を通るとき、大田から岡山までの在来線切符はどうするのか迷ったので駅員に聞くと「3枚一緒に入れてください」と言われた。3枚投入すると新幹線用の2枚だけが出てきた。最近の改札機は進歩したものだと感心した。

 今回は岡山から大阪間は格安キップを買っている。これだと乗車券、特急券合わせて2400円だ、各駅停車の金額より安い。ただし、変更は一切できないので伯備線列車に遅れの生じるおそれがあるため岡山では1時間の余裕を持っていたが、これが僕のような年寄りには、トイレを済まし、売店をのぞき、乗り場の確認をする時間があって都合いい。

岡山発18時23分発ひかり482号の6号車はよく空いていた。

18番D席に座席をとっている。東京行きだから満席になり新大阪で降りるとき隣の人に迷惑をかけることになることを予測して通路側をとったのだ。だが、新大阪まで隣の席に人が座ることはなかった。おかげで、車窓風景を楽しむことができた。この700系は窓が広いのでありがたい。

車内を見回すと10人ほどのツアー客と数人の客がいるばかりである、ようするにこの車両は安売り切符の車両らしかった。

 

 新大阪19時40分着、

 駅の各ホームを繋ぐ連絡路は多くの人間がせわしなく歩いていて、うかうかするとぶつかる。キャリーケースを他人に接触させないよう手元に立てて転がした。

雑踏が夢の世界から現実に引き戻している。

独り旅は終った。