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僕の気楽飛歩日記

戦中派老人の赤裸々な日記から

追憶

 駅から東へ5分ほど歩いたところから、今乗ってきたJR線を横断する跨線橋を渡ろうとしたら、鉄が錆び朽ちてあちこちに穴が開き下の線路が見えている。うっかり歩けば足を踏み抜きそうな状態だ。それでも通行禁止にはなっていないから大丈夫だろうと、ヒヤヒヤしながら渡りきった。そこから国道の下をくぐり抜けて広い道に出た。

まだ新しいこの道は隣の集落への山越えの道で、実は、少年時にこの道を通った記憶は無い、僕の生まれた集落へ行くには国道を通るほうが近く、遠回りになるこの道は利用しなかった。

独り旅を始めてから車の騒音に悩まされる国道より静かなこの道の方がいいと使い始めた。

 昔は大八車がやっと通ることのできる狭い地道だったものを山を掘り切り拡張して、直線的な車道にしてある。

 ところが勾配はかなりきつく、歩いていると呼吸が乱れ体は汗ばんでくる。73歳の老体にこたえる。

― せっかく掘るなら平たんになるまで掘ればいいのに。

 歩きながら不満をぶちまけても今どきの車社会だ、徒歩で峠越えする者は僕ぐらいなもんだろう。大型車が高速ですれ違いできるほど広く造ってあるのに歩道も付いていない。

 車道の端を歩いている僕の耳に、せせらぎの音ばかりが絶えず聞こえているが谷川は草木に覆われて見出すことができない。

 何年か前の4月に来たときには恋を求める小鳥たちのさえずりがかしましいほどであった。今の季節は落ち着きを取り戻し、チュッチュッと小鳥が鳴いているだけだ。ヒナが親を呼ぶ声だ。ふといたずら心を出して両手の平をポンと叩いて音をだした。ヒナには届かなかったらしく鳴き声は途絶えなかった。

 上空を見るとずいぶん高いところに、完成したばかりの自動車道が横切っている。今、僕が歩いている谷を跨いでいるのだ。

 道を施設するには山や谷などの地形を考慮に入れて、できるだけ自然にそぐわせるよう造るのが昔からやってきたことであるが、この自動車道は地図上に直線的な線を引き、そこが低い山であれば削り、高い山ならトンネルを掘り、谷は長い橋で一気に跨いでしまう。そんな造り方だ。

 峠の頂きに近い道の右壁に、数年前に誰かが岩から滴り落ちる湧水を溜めるための小さな池を造っていた。当初はセメントの垢が湧いて水も飲める状態ではなかった。今は池の壁を苔がびっしり付いて綺麗に澄んだ水をたたえていた。

 横に置いてあったアルミカップで飲もうとして手にしたが、溜まった水をすくって飲まねばならない、鳥たちの水場にもなっているだろうし、さすが抵抗があるのでカップを柄杓代わりにして手を洗うにとどめた。

 峠を越えて、もうすぐ隣の集落に入るという山際に栗の古木が立っていた。この木に葛(かずら)が絡みながら上に伸びている。ところが栗の木の表面ではなく樹皮の内側を通っているようだ。近づいてよく見ると根元近くで剥離した樹皮の下から入り込み一の枝近くで表面に出ている。栗の木に痛痒はないであろうが見るからに痛々しい。それにしても樹皮の内側と木肌の間を上っていくその執拗さと力強さは不気味なほどである。

 

 山間の里に下りた。

 南と北に山が迫り幅数百メートルしかない狭い谷あいになっている。それでも東から西に移動する太陽の恵みを受けて日差しのよく当たる明るい村である。

 山は常緑広葉樹の花が満開になっている。春先に咲く桜や桃のような派手さはないが、クリーム色やベージュ色の花が盛り上がるように咲いている。これから夏にかけて常緑広葉樹の花が次々と咲く。

合流した村道を東に5分ほど歩いて昨秋の独り旅のとき見つけた小学校分校の廃校に出た。

 先ほど列車を降りた駅の裏にある本校までは山越えの道が4キロあるため、4年生までの児童がこの分校に通っていた。先生が2人、教室3つの複式学級であったという。

僕は、ここから2キロ西にある小学校へ昭和26年4月に入学した。当時の1年生は40名ほどであったが、この分校は全学年(1年から4年)で11人だったという。

昭和40年(1965)に廃校になっているのに今でも現役の校舎みたいだ。地域会館として残し集落の人たちも建物の維持、校庭の草刈りなどをまめにしているようだ。屋根も吹き替えてあるらしく瓦も新しい。地域住民の心意気がうかがえる。

 先月来たときには満開の桜を写真に収めたが今日は新緑に包まれた校舎を撮りたい。

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 写真を撮りながら、ふと僕が中学生のころ、ここに小さな学校があるのを見た記憶があるのを思い出した。

 夏の暑い日だった。家の用事で対岸の山の斜面に点在する集落の一番上にある家を訪れたことがあった。自動車の通る道は無く、自転車さえ持ち上げることのできない、水の枯れた谷川のような道を徒歩でひたすら登って用事を済ますと、

「そこの水を飲んで帰りんさいや」

 とおばさんに勧められ、家の横から筧(樋)で流れてくる水を口で受けて飲んだ。冷たく旨い水だった。

「ありがとうございました」

 礼を言って帰ろうとすると眼下の山村風景が目に入った。集落の中を流れる大川に沿って石積みで平坦な地を作った小さな田んぼがならんでいる。

 こういう高台に暮らしたいと思っていた僕を満足させるだけの景色が広がっていた。

「おー」

 僕は感嘆の声をもらした。涼しい風が汗でボトボトに濡れた体を冷ましてくれている。大きな山の下に小さな民家が点在して、その一番右端に小さな校舎があるのを認めた。

― 小さい学校だ。

 僕の通っていた小学校は250人ほども生徒がいる校舎だった。それに比してあまりにも小さく見えた。

 玄関入口の石段に僕より年配の男性が座って本を読んでいた。もうすぐ開く図書室の本を借りに来たようだ。

 山肌にへばりつくようにあった20軒ほどの民家は移住し、屋敷跡や田畑は植林され、現在では位置さえ見極めるのが困難になった。

 集団移住したと思っていたが、老人は「違うよ、みんなが徐々に出て行ったんだ」と否定した。今でも1軒残っていると老人は言った。

 理由が何だったのかは分からない。だが、車道も施設できないような山の上では何もかも担いで持ち上げなければならないし、病人が出ても担いで下りなければならない土地だったから生活の不便さを考えれば移住も当然だったのだろう。

 それにしてもこの集落は石垣で広い敷地を造り田畑も多くあった。それらを捨て移住した住民の決断と心情はいかほどのものだったろうか。

 ある民家の前を歩いているとかすかな花の香りがどことなく漂ってきた、それが何の花なのかは分からない。沈丁花のようでもあるが時季は過ぎているはずだ。みかんの花かもしれない。と思ったが確かめる気も起きないままその場を離れた。歩きながら、さっきのは何の匂いだったのかと考えてみてもやはり分からなかった。匂ったのはほんの一瞬で歩みは緩めなかったから既に遠く後方に離れていた。

 村道は緩やかな下りが続いて、惰性のような軽やかな足取りで歩いている。

顔に受ける初夏の風が気持ちいい。

「ケロケロ」左手の田んぼから、いかにも物憂い声でカエルが鳴いた。昼寝最中の寝言のような鳴き方だ。

 振り返ると、先ほど通り過ぎた民家の裏山は鮮やかな黄緑色の若葉がモコモコと重なり合って山全体に広がっていた。

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 大川と呼んでいる水の少ない流れに沿って道なりに下っていくと、水中にたむろしていたハヤやフナなどの小魚が、パッと散らばり草の茂みに隠れた。大雨のときには水害を起こすほどの大川でも、普段は水量の少ない浅い川だから、常にトンビやアオサギなどに狙われているのだろう。

 この川の下流域に僕の生まれた集落があり、距離にすれば1キロほども離れていない。

それでも校区が違うこともあって、遊びなど子供たちの交流はなかった。

 

僕の生まれた里に入った。

この村に九つある集落の一つだ。

数億年前に活動していた千メートル級火山群の一峰を源流とする大川流域に広がる集落である。四方を山に囲まれ東西に横たわる村の中央を、大川と県道が縦断していた。

静かな山村であったが県道は昭和40年(1965)に国道として拡幅整備されたため、それでなくても狭い村が一層狭くなった。国道は便利さと引き換えに、景観を壊したうえ集落の家屋六軒を飲み込み、騒音をまき散らしている。

ほとんどの田んぼが田植えを終え、静謐を取り戻している。

集落を囲む里山は黄緑や青緑などの新緑が雑多に、それでいて存在を誇示するように広がっている。

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 少年時には毎日の炊飯、風呂焚きの燃料に使用していた雑木の刈り取りに村人が立ち入っていたが、今は入る者もなく放置されている。ためにそれだけが昔からそっくりそのまま面影を残している。そこは少年時には僕らの遊び場にもなっていたから、そのどんな隅々や谷の奥までもよく知っている。

 この村は南北朝時代から戦国時代にかけての城下町であった。特に、戦国時代には中国地方随一の勇であった毛利家の一族が支配していたこともあり多くの家屋敷跡が残っている。

 武士たちの屋敷跡は村人の畑地となり、今ではほとんどが山に還っている。

 少年時代に山で遊んでいると、雑木林の中から見捨てられた墓標が不意に目の前に立ち現れることがあった、これには肝をつぶした。当時、見捨てられた墓に近づくと霊がかぶさって来ると言われていたからだ。僕らは、ソーっと忍び足で後退しその場を離れた。二度とその墓に近寄らないようにした。

 戦国時代にはこの地で合戦があったため山の中や田んぼ脇の草むらに墓石が埋もれていることがあった。当時は討ち死にしたその場所に埋葬したようだ。

 今、その山に入ってみたい気もあるが、他人の山に無断で侵入することになるし、村人が放置した里山には、サル、イノシシ、キツネ、タヌキなどの小動物が入り込み、さらに30年ほど前から熊までも目撃されるようになった。少年時には小動物さえ姿を見ることのなかった里山である。僕らの遊び場にもなっていた山に「熊が居る」と初めて聞いたとき、「そんなはずはない、イノシシの見間違いだろう」と一笑に伏していたが、数年前、ネット上に大きな熊の写真が投稿された。

さきほど歩いてきた峠にある一軒家などは猿やイノシシから農作物を守るため天井部分を含め畑全体を金網で囲っていた。僕が通るとき農作業をしていた男性は檻の中で働いているような奇異さえあった。

集落全体を囲うように山の中に防護柵をさらに田んぼの四周にも電気柵を設置している。

人間が捨てた里山には多くの獣が生息しているのだ。

 長兄がすべてを売ってしまった実家は、人間による造形から解放され、自由を得た庭の植木が伸び放題で家屋は埋もれ、その屋根さえ見えない。家屋については僕が離郷してから新築したものであり少年時の思い入れはない。それでも僕の生まれ育った屋敷であり思い出の場所である。

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 先祖から受け継いだ土地を守ることが嫡男の義務だと思っていた。財産のすべてを売り払うという選択肢は僕には思いもつかなかった。僕には到底受け入れることはできない。長兄だって都会に生活基盤を持ち、子や孫も長兄の近くで生活している。いまさら無理をして帰郷しても数年後には子のところへいかねばならないだろう。そんなことは分かっている。理屈ではない、嫡男は先祖伝来の財産を守り子孫に引き継ぐのが使命だ。

購入したのは田舎暮らしに憬れた神戸の人だと聞いた。だが、その人も数年で逃げ帰った。

 自給自足を基とする村のことだから食料品を売る店はない、僕の少年時にはあった店も今は無いため隣町まで車かバスで行かなければ調達できない。これでは都会からの移住者には耐えられないだろう。

 この移住者は入居するなり裏山のすそ野に広がる竹林をすべて切り払っていた。おそらくやぶ蚊の多いのに閉口してのことだろう。

 裏山の竹林は山からの落石を防ぎ、もろくなって崩れやすい斜面の崩壊を防いでくれている。それに春には多くのタケノコが生える。だからこそ村人は竹林を大切にしているのだ。

 裏山の竹林を切り払うなんて余所者のすることである。

 今、その竹林は元通りに復活している。

 実家の前の径(こみち)は村民の生活道路である。野良仕事や通学、遊びのときいつも歩いていた道である。今、久しぶりに歩いてみたいと思ったが、あの径に一歩踏み込むと村人の注目になってしまう。国道を歩いている限りは余所者であるが径を歩くことは何らかの用事があるからである。

 その径を、こちらに向かって自転車で走って来る女性がいた。いつ来ても誰一人として姿を見かけることのない集落なのに珍しいことだと注視していると、その女性はどんどん近づいて僕の横を通り過ぎた。五十代の知らない女性だった。当たり前である、この村で僕の顔を知っているのは同級生のF君かいつも一緒に遊んでいたY君しかいない。離郷して半世紀、もはや完全なる浦島太郎である。

 その女性も僕を余所者と認識しているらしく、顔を伏せてこちらを見向きもしないで通り過ぎた。村人同士であればあいさつを交わすのに当方を見向きもしないということは、彼女は僕の視線の届かない位置で僕を見つけて村人でないことを確認していたのであろう。

 例え僕を知っている人がいても、ふるさとを捨てた僕らバカタレ兄弟を軽蔑し愛想よく接してくれる者もいないだろう。

「いい男が3人もいて売ってしまったで」

 村人の言い分である。

どうも廃頽した気分になってしまう。

ふるさとは遠きにありて思うもの そして悲しくうたふもの よしや うらぶれて異土の乞食となるとても 帰るところにあるまじや ひとり都のゆふぐれに ふるさとおもい涙ぐむ そのこころもて 遠きみやこにかへらばや (室生犀星

 

 過疎化のため集落の半数以上の民家は消滅してしまったが、ただ1軒、少年時のまま残っている木造の民家がある。半世紀以上経ってもほとんど崩れることなく保ってきたのは雨の多いこの地方では奇跡ともいえる。

この民家は、昭和18年の山陰大水害で流失してしまった後に建てられた家屋で、身寄りのない老夫婦であったため、空き家になってもそのまま取り壊されることなく現在に至っている。

 家の周りすべてをコンクリートで固めてあるため、草や蔦につぶされることがなかったのである。

 今、僕がたたずんでいるのは国道脇にある城山登山口の駐車スペース(乗用車3台分しかない)である。ここにベンチでもあれば、どっしり腰を下ろして、遠い幼少年期の記憶をいちいち蘇えさせながら、いつまでも見つめていたい。だが、ベンチなんてあろうはずがない。

せめてもの思いで、橋の欄干に尻をかけ川を見下ろす恰好をつけながら集落を見まわした。

 この村に居場所を失ったわが身は、薫風に乗った雄シベのごとくただ漂い通り過ぎていくばかりである。

 城山は子供たちの遊び場にもなっていたから少年時にはよく登った。頂上部にある三の丸から眺める下の集落は季節の移ろいの中にスッポリと収まりいつ見ても飽きない美しさがあった。

 標高百メートルほどの山だから10分ほどで登ることは可能だが、少年時遊びで山に入るのは秋の10月から春の節句(4月4日)まででそれ以外はマムシが出現するので山で遊ぶことはしなかった。仕事で山に行くときは必ずゴム長靴を履いた。

 今歩いている国道の左手に大川が流れている。

 先ほど歩いてきた集落と川幅はあまり変わらないが水量は増えている。それでも浅く危険な場所はなかったから夏休みなどは子供らの恰好の遊び場になっていた。船を作って浮かべたりゴム草履で水の中にはいり、小さなタモ(網)を持ってハヤやフナを追い、ミミズを餌にフナ釣りをしたのもこの川である。釣れるのは体長七,8センチのゴリ(ヨシノボリ)や小鮒、ハヤなどであったが数時間粘って1、2匹だけだった。

 子供のいなくなった現在では川で遊ぶ姿も見なくなった。

 夏の晴れた日の夕方、流れのないよどんだ辺りでカゲロウやトビケラなど水生昆虫が一斉に羽化して水面から飛び上がるときがあった。このとき多くのハヤが水面上に飛び跳ね捕食していた。気でも狂ったのかと思うほど乱舞する。 

 今年に入ってからの集中豪雨で大川の両岸に設けた3メートルほどの護岸を超え、その上の土手が決壊寸前まで流されていた。ブルドーザーが川底の土を浚(さら)い土手の補強を急ピッチで進めていた。

 集落内の、西のはずれに廃寺があり、その横にわが家の墓地がある。といっても長兄が別の地域にあるわが家の菩提寺に移した後なので廃棄した墓地であるが、そこには母が生前に建立した大きな墓標を倒して隅に放置してある。魂は抜いてあるというが、なぜか申し訳ないようなうしろめたさを感じる。村人もそれを見てどう思うであろうか。

 その前にある、わが家の田んぼはカヤのような背の高い雑草が生い茂っている。もはや再生は難しいだろう。

  少年時の想い出に導かれるまま歩いていると、もう村はずれの曲がり道に来た、ここを曲がれば僕の家は見えなくなる。

 立ち止まって振り返り廃屋のわが家を見収めた。

 曲がり道にさせているのは標高百メートルほどの小さな山で、村では喉元にある扁桃腺のような位置にある。この山のせいで僕の集落は午後4時を過ぎると日陰になる。夏などは西日が当たらないので助かるが冬は寒くなるのが早かった。

 カーブを曲がると視界が開けてきた、こちらが広く村の中心になる。駅や役場、郵便局、役場、小学校、中学校すべてがある、そしてその先は太陽が沈む日本海だ。

 今は廃校になっている中学校の、運動場の端に1本の楠木が立っている。昔なじみのこの木は、僕が小学生のころは、ここが小学校でその前庭にあったものだ。あれから半世紀も経っているのに、ちっとも大きくなっていないように僕には見えた。だが、それは僕の錯覚である。元気溌剌と育っているこの木が大きくならないはずはない。

 校舎も昭和41年7月に解体された。そのあと中学校として建てられた校舎も15年間使用しただけで閉校になった。少子化は目も当てられない状態である。

 中学校は土曜日で休みだった。現在では周辺4か町村の小学校になっている。それでも児童数は全校で八十名に満たない。僕の少年時には1か村だけで250名ほどいたのに。恐ろしいほど早いスピードで児童がいなくなっている。僕も逃げた一員であるが・・

 舗装した村道から一歩踏み出すと浜への細い道になっている。道として整備されたものではなく、人が踏み固めた道である。浜昼顔が広がっている砂の上を、靴に砂が入らないよう足元を見ながらゆっくり歩いて、砂に埋もれ、かがまなければ通れない鉄橋の下をくぐって海岸に出た。

 

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 少年時には浜も広く遠浅の海水浴場があり、夏には大きな松林の木陰に海の家が出来てにぎわっていた。今、松林はすべて枯れてしまい低い灌木と雑草が人間の立ち入りを拒んでいる。

 それでもふるさとに居場所を失った僕にとっては、ゆっくり腰を下ろすことのできる唯一の場所である。

 ザーバシャン、スー

 ほとんど力の無い波が、ザーっと寄ってきてバシャンと崩れ、スーと音を残して引いていく。心癒される音である。

乾いた砂の上に腰を下ろし、静かに打ち寄せる波音を聞きながらペットボトルに入れた水で喉を潤した。

 駅に出た。信号機も変轍機もない、駅とは名ばかりの停留所だ、列車は勝手に入り出て行く。

 少年時には駅員がいて列車の到着、発車の許可をだし、列車が見えなくなるまで見送っていたものである。

 待合所で2人の高齢女性が話こんでいた。1人は僕より5歳ほど若く、母親が病気になったので10年前にUターンしてきた。主人は四国の人だったが夫婦で来て、釣りの好きな主人は田舎暮らしを楽しんでいたが4年前に他界してしまったと言った。もう1人の方はどことなく見覚えのある女性だった。女性同士の会話のなかに「スミちゃん」という声が聞こえた。

「え,スミ子さん?旧姓〇〇スミ子さん?、この近くでは▽▽はつ江さんと僕は小学校の1年から同級生だったけど、僕の顔を覚えてない?」

「はっちゃんでしょ、知っているよ同級生だから」

「じゃ、僕と同級生だ」

 その女性は僕の名前を言っても思い出さないようだ。

「そりゃーないよ、オレハンサムだったで」

 女性は同級生という僕の言葉に反応せず、また女性同士で話し込んでいた。

 都会暮らしの長い3人とも方言で話している。

 ふるさとの訛りなつかし停車場の人ごみのなかにそを訊きに行く(啄木)

「次の上り列車は、前の駅を通過しました」

 自動音声による列車到着の案内放送があった。

 まもなく姿を現した一両の列車に後部入り口から乗り込み、発券機から整理券を引き抜いた。都会の路線バスと同じ方法だ。降りる人はなく、僕らだけを乗せて列車は発車した、乗客も数名しかいない。

ハングル

 旅先で地方紙を読んで面白い記事を見つけた。

 一部地域らしいが中高生の間で流行っているラインを「ハングル文字で書きこんでいる」という。

 日本語をハングル文字で記入し通信しているというものであった。

 こうすれば親や先生に見られても読解できないので安心だということらしい。

 新聞は日本語の崩れにつながりかねないと否定的であったが…

 さっそくネットで調べると、ハングル文字と日本語のひらがな文字を対応できることが分かった。

 中高生の着眼に脱帽だ。

 

墓参

 

 

 

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 最寄り駅、駅舎も無い無人駅でホームに待合所があるだけ。ここから山越えの峠道を歩いて4キロのわが家の菩提寺へ向かう。

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 国道を横断して狭い切掘りの道へ入る。

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いきなり寂しい森の中だ。

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 最近は熊が出没するらしいので鈴を付けてジャランジャランと派手な音を立てて進む。

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乗用車1台がやっと走れる狭い道路だ。

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中学2年の遠足で通ったときには左手の谷に田んぼが並んでいたが今は山だ。

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 ダラダラとした登り道をひたすら歩く

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道端に大きなサルトリイバラの葉があった。幼少期、祖母がこの葉でかしわ餅を作ってくれたものだ。

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山には獣道があちこちにある。

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道路標識もこのとおり柱だけになっている。

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峠を越え、もうすぐ里に出る道端でタヌキがミミズを探していた。カメラを向けても逃げない。僕の存在に気づいていながら無視している。

 まるまる太っておいしそう。

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やっと県道に出てきた、振り返って今来た道を見る。

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ここからは単調な県道を2キロ歩く。

暑い、5月というのに27度を越している、でも風があるのでしんどくはない。

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この辺りは平安時代から都人(公家)の治める地で栄えてきた村であるが、今は廃墟が多い。

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お寺の庫裏さえこのありさま。

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やっと到着。わが家の菩提寺は健全だ。

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わが家の墓地はあの中にある。

墓参が終わったら、往路の道を引き返しだ。

 最寄り駅まで帰ってきて、待合所にいた僕と同年代の女性にタヌキの話をしたら、「普通にいるよ、昔は犬を放し飼いにしていたけど、現在、犬は繋いで飼うからね獣も安心して里をうろついている。このまえなんか小学校近くに熊がでたということで生徒は鈴を付けたと言っていた」

 まったくそのとおりだ。僕の少年時には多くの家で犬を飼い、放し飼いにしていた。犬が、里への獣の侵入を防いでいたのだ。

 今回の歩数13000歩、所要時間2時間だった。

 

 

ゴールデンウイーク

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   世の中はゴールデンウイークだ、娘家族はキャンプに行っている。

 僕らにはゴールデンウイークはない。

 5月5日の子供の日だった、テレビで「和歌山緑化センターの花が満開になっている」と報じていた。

「よし、行こう」女房と2人で行った。

 花壇の花は満開だったがそれ以外には見るべきものもない、せっかく弁当持参で来たが時間つぶしもできないと、早々に退散して京奈和道路の無料区間を走って五条の運動公園へ行った。

 こちらはツツジが多いので見ごろだろうと思ってのことだった。だが、あまり花がない。

よく見ると剪定の時季を間違えているようだ、ツツジは花が終わった後直ぐに剪定すべきなのに遅れたため花芽まで摘んでしまったようだ。

 それでも木陰を探して持参した弁当を食べた。

 外で食べる弁当は格別美味い。

 風が気持ちいい。

表彰式

 孫が習っている書道の表彰式が大阪市内のホテルで行われた。

「爺ちゃん婆ちゃんも来てよ」

 孫の誘いを受けて行くことにした。

 ところが、「知り合いがたくさん来ているから服装はしっかりしてよ」と娘にくぎをさされた。

 いつものウォーキングスタイルはだめだということだ。

 リタイアのとき、ほとんどの背広とネクタイを処分し、わずかに冠婚葬祭用を残しているだけだ。それでも「確か、ブレザーを1枚残していた」と女房が洋服ダンスの奥から取り出した。着てみるとぴったりだ。

「よし、これにしよう」

 決心はついたが現役時代に買ったものだから20年近く経っている。

「どうかな、古臭くないか、時代遅れになってないか」

「いいや全然、大丈夫」

 女房はあまり見向きもしないで応えた。

 結局、表彰式会場だけ着用し、あとは脱いで持ち歩いた。

 

藤の花

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  和歌山県のみやまの里森林公園へ藤を見に行った。

     阪和高速道海南インターチェンジから約40分、家からは2時間の行程である。

  藤の花は満開、頬にあたる風がさわやかに感じる晴天だった。

  山は新緑がはえ、ベージュ色に盛り上がった常緑樹の花も満開だ。

  だが、1周1.8キロメートルしかないと高を括って歩いたのが悪かった。最後

    に高低差96メートルの急な階段を降りたら足の筋肉痛になってしまった。

  年には勝てぬことを肝に銘じなければならない。

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これより73歳

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 誕生日

 リタイア12年目に突入だ。

 軽い風邪は引くものの一応元気である。

 腰痛はコルセットを外せなくなったが、ストレッチさえきちんとしておけば歩くことに支障はない。痛み止めの薬もほとんど飲んでいない。

  ただし、風邪薬は栄養剤のごとく飲んでいる。

 女房から独り旅行用のウインドウブレーカーと夏用帽子をプレゼントしてくれた。

 娘夫婦は旅費の足しになるよう1万円だ。

   朝、散歩をしているとツツジが満開になっていた。早速絵を描き始めたら1日かかった。

 昼食は、女房が炊いた赤飯で誕生日気分を味わう。

 午後、「おじいちゃんお誕生日おめでとう」と孫から電話がきた。

 さあ、今年も遊ぶぞ。